医院の宣伝・広告を勧めてくる業者さん曰く、「患者さんは医師の経歴だけではなく、医師の人柄が伝わるような情報にも興味があるのですよ」とアドバイスされます。それで、インタビュアーさんが院長先生からヒアリングした内容をもとに「自分or親が病気になった経験から〜〜〜」とか「生まれ育った地元の医療に貢献したくて〜〜〜」とか代理作成して雑誌やネットに載せてくれるのです。有料です。
そういうお仕事や宣伝も世の中には必要かと思いますが、私は良くも悪くも自分の言葉で伝えたいのでお断りしています。代わりに、誰も読んでいなさそうなこの場所で私のプロフィールを語ってみたいと思います。
私の両親は共に東京都足立区の出身で、父は薬学系の研究者、母は専業主婦でした。両家の祖父は建設業の下請と街の写真屋で、そもそも近い親戚筋で医者はおろか大学卒は私の父くらいで、特に学歴のある家系ではありませんでした。
私は1975年(昭和50)に横浜市で生まれ、1歳頃に引っ越し、10歳まで東京都の多摩ニュータウンという団地に住んでいました。クリニックの近くに「ひばり団地」という団地がありますが、非常によく似ており、その当時、全国にニュータウンがたくさん建てられたのだと思います。昭和の団地は敷地に芝生が敷かれ、建物間の余裕も十分に取られているので、最近のマンションより子どもには遊びやすい環境だったと思います。今でもひばり団地の横を通ると当時のことをよく思い出します。
私は小さい頃から本を読むのが好きでした。というのも、母の考えでは「テレビ番組は子どもの教育に良くない」ということで、私の家はテレビが無かったのです。正確にはテレビは押入れの中にしまわれており、どうしても観たい番組がある時だけ押入れから出されてくるのでした。昭和のテレビは大きめのミカン箱くらいの形と大きさのブラウン管テレビで、チャンネルはつまみをガチャガチャ回して番組を切り替えます。滅多にテレビが見れないので本を読むしかなく、自然と沢山の本を読むようになりました。
まだ字が読めない頃は怪獣図鑑を持ってきては怪獣の体長体重、得意技を大人に読ませていたそうです。その後、母が読み聞かせてくれる絵本の内容が理解できるようになり、今でもストーリーや挿絵を覚えているものもあります。絶版「いねむりろばくん」、今でも購入できる「おしゃべりなたまごやき」などです。なぜか岩崎ちひろの「赤い蝋燭と人魚」が家にあり、よく分からないけれど怖かったのも覚えています。小学校に上がるとシートン動物記、ファーブル昆虫記や、各種の冒険物語、特にシャーロック・ホームズや江戸川乱歩、少年探偵団シリーズに熱中していました。令和の現在でも動物をキャラクターにした物語やワンピース、名探偵コナンなど冒険・探偵ものが人気ですね。
今のテレビは放送倫理やコンプライアンスなど常識に沿った内容になっていますが、昭和のテレビは色々な意味で滅茶苦茶だったので、母の考えも分からないでもありません。そのおかげで本をたくさん読み、勉強が得意になったのかもしれませんが、人格面では結局、私のような適当な性格の人間が出来上がってしまったのは申し訳なくも残念ではあります。(つづく)




この記事へのコメントはありません。